黒くてちっちゃい子どもたちが、お腹をポコンと膨らませて大泣きしている。飢餓でお腹をすかせている子どもたちだということをテレビで知った時、小学4年生だった私には大きな大きな衝撃でした。
ロサンゼルスに住んで16年、ロサンゼルスでLA留学のサポート事業は11年になります。
東京農業大学在籍時に、国際協力活動を一緒にやっていたアジア・アフリカ研究会の同期は5人でした。私は5歳の時に父を亡くし、同期の友人は離婚寸前で家庭内別居、とても貧しくて学費を自分で稼ぎながら実家にも仕送りをしている者、身体的にハンディキャップがある者。
みんな辛い経験があるからこそ、人の役に立ちたいという想いが溢れていました。
そうだ、農業を教えてあげよう
なんで日本にはこんなにいっぱい食べ物があるのに、アフリカでは食べ物がないんだろう?そうだ、この国の人達はきっと食べ物の作り方を知らないんだ、じゃあ私がそれを勉強して教えてあげよう。そうしたら皆お腹いっぱい食べられて幸せになるはずだ。
こう思ったのが、私が農業に興味を持ち始めた第一歩でした。これが小学4年生の時です。それにしても、今思えば偉そうに教えてあげようなんて高慢だなと笑ってしまいます。
その後、中学1年生で英語の授業で使っていた教科書に、青年海外協力隊の話がのっていました。20代から30代の若い世代が、アフリカや東南アジアの貧しい国へ行ってボランティアをするというストーリーを読み「私がしたいのはまさにこれだ。青年海外協力隊に入ってアフリカに行こう。そして農業のやり方を教えるんだ。」と将来の目標を決めたことを鮮明に覚えています。
高校2年生になり、そろそろ行く大学を決めようと思い、本屋さんへ大学紹介の本を探しに行きました。やりたいことは農業だから、農業という言葉が大学名に入っているべきだろうと、東京農業大学と書かれたパンフレットを手に取りました。
最初は農学部の説明を読んでいたのですが、なんかしっくりこないのです。パラパラとめくっていくと、国際食料情報学部という学部が目にとまりました。この学部では、各国の食糧や経済、人口問題などについて取り組んでいるとのことです。
この学部はさらに、国際農業開発学科と食料環境経済学科、国際バイオビジネス学科に分かれていて、国際農業開発学科の説明を読んだ時に、もうここに入るしか無いと決めました。
国際農業開発学科は、途上国への食料・農業開発のための国際協力ができる人材を育成する、という学科で多くの卒業生は青年海外協力隊へ入っているとのことでした。さらに東京農業大学は「実学主義」というものを大々的に掲げており、ただの机上の空論ではなく、実際にやってみるということにとても重きをおいているのです。
とにかくアフリカに行って、青年海外協力隊として実際にボランティアをしてみたいと思っていた私には、東京農業大学の国際農業開発学科しか入学する気はありませんでした。
よく調べてみると、アジア・アフリカ研究会というサークルがあることがわかり、このサークルを見つけた時は本当にウキウキしました。大学のオープンキャンパスがあり、農大で育てられた材料を使ったクッキーや各学科の研究発表を見たりと、否が応にも期待は高まりました。
無事に入学をして授業を受けていたのですが、なかなか農業実習がありません。そんな時にアジア・アフリカ研究会でゴールデン・ウィークに農業実習で鹿児島に行く機会がありました。その実習がきっかけで農大生活の殆どを勉強ではなく農業実習に使っていました。
農業を教えてあげるなんておこがましい・・・
アジア・アフリカ研究会の仲間と初めての海外に出たのは大学1年生の終わり、ブルキナファソでした。ブルキナファソには約1ヶ月滞在したのですが、初めてだらけのことでした。初めての海外、初めてのボランティア、初めてのフランス語、初めて他人との長期滞在、初めての失神、初めてウンコを頭にのせる・・・
青年海外協力隊、JICA(ジャイカ)、NGO(エヌジーオー)のそれぞれの活動を見学をさせていただきました。彼らの活動を目の当たりにしてやっと、農業を教えてあげるといのは上から目線で、なんておこがましいんだと思うようになりました。と同時に、第三者としてできることもあるはずだと感じるようになりました。
また、NGOの草の根的な地道な活動を見て、どんどんそちらに惹かれていきました。青年海外協力隊とJICAは政府機関である程度の縛りはありますが、NGOはそれらに比べるともっと自由で融通がきくというのもわかったからです。
話は全く変わるのですが、アジア・アフリカ研究会の同期は5人いるのですが、話し合いをしていくうちに一般的とは違う家庭で育ってきたということが浮き彫りになりました。
私は5歳の時に父を亡くしていますし、他の同期は離婚寸前で家庭内別居、とても貧しくて学費を自分で稼ぎながら実家にも仕送りをしている者、身体的にハンディキャップがある者。大変な経験があるからこそ、なんとか人の役に立てることができないかと思うようになったんだと思います。
ブルキナファソでの経験から2年が経ち、大学3年生の後半、周りの皆が就職活動に忙しくなり始めたので、私もそれにつられて就職活動をするようになりました。食料関係の仕事が良いなと漠然に思っていたので、それに関する会社を10数社受けていました。
そんな最中、大学4年生の直前の春休み、久しぶりに時間ができたので母と2人で温泉に行く事になりました。今でも鮮明に覚えていますが、就活をしている私に向かって「あんた、本当にそれでいいの?もっとやりたいことが他にあるんじゃないの?」と言ってきたのです。
ガツーンと衝撃を受けました。確かに、なんとなく就活をしていましたが、これは私のやりたいことかと問われたらそれはNoでした。やはり母は息子のことをよく見ているものなのですね。なんとなく煮え切らない生活を送っていたと後から言われました。
母に言われたのは休学届を出せる2日前でした。私は急遽休学届を提出することにし、すべての会社に断りの電話を入れて1年間ザンビアへ行くことにしました。ザンビアに決めたのは以前同期の友人が行っており、且つOBがいたからです。
ザンビアへは足掛け2年間いました。そこで痛切に思ったのは、英語が話せなければ小さな子供と変わらないということ、自分は感謝をされることが生きがいなんだと分かったことでした。
そして、農業を通しての国際協力から離れたのは、現地の人々が援助慣れしてしまい、周りから助けてもらうのが当たり前だという風に感じることが分かったからです。
イスラム教では持てるものが持てないものへ施しをするのは当たり前ですが、やはり日本で生まれ育った私にはなかなかその考えは受け入れることができませんでした。
夢は世界平和
アメリカには、ザンビアで出会った友人を通じて来ることになりました。それが気づけば16年も経ちました。
現在の私の夢は、世界平和です。世界が平和になるには、皆が幸せであることだと思います。皆が幸せになるには、お互いを尊重しあえなければいけません。例え全く違う価値観の人間がいても、相手を尊重できれば争いごとは起こらないと思います。
そして、相手を尊重できるようになるには、相手の価値観を理解すること、より多くの人の価値観を理解をするには英語を学ぶことが必要だと思います。そこで英語を学ぶ手助けをするために、今の仕事をしているのです。
相手の価値観を理解するには、英語が必要で、特に若い時から海外での経験をしてもらいたいと思っています。ロサンゼルスの子どもたちは、小さな頃からいろいろな移民と生活をしていて、いろいろな人種がいるということが当たり前になっています。
人種が違うからといって差別をすることも無いですし、英語で会話ができるようになれば価値観を理解できるようになるのです。小さい頃からそういった経験ができるのは何よりも素敵なことだと思います。私も娘の親として、できる限りそんな体験ができるように気を使っています。
ロサンゼルスのLA留学を経験した人たちがお互いを尊重し合い、皆が幸せになり、争いのない世界平和が来ますように。